塩谷定好生家

外観1 外観2 玄関 あがりたて 1階部屋その1 1階部屋その2 1階部屋その3 階段下 2階部屋その1 2階部屋その2 2階部屋その3
外観1

塩谷家歴史

塩谷家は現在で9代目を数え、約200年の歴史のある旧家。屋号「塩屋」を名乗り、江戸中期より赤碕に住居したようであるが、初代から3代については、詳細は不明である。

4代目塩屋孫平(港町の岡田家より養子)が江戸末期から明治初期にかけて、菊港を母港とする回船業(所有船・蛭子丸「えびすまる」)を営み、北前船で米や海産物を商った。日本海沿岸を舞台に活躍し、商売が拡大した後、北海道豊頃町に漁場を持つに至った。明治初期に、北海道に飢饉がおこった際、商品である米を住民のために無料で分け与え、その恩義から、住民の手により「孫平神社」が現地に建てられたとの言い伝えもあるが、孫平は志半ばで北海道で35才で病死した。

明治以降、「塩屋」は塩谷姓を名乗り、孫平の後嗣として槻下の盛山家より入った久次郎は、5代目を継ぐとともに、本宅の建築をおこない、米の仲買業として、塩谷商店を起業した。公務として町3役を歴任、第4代目赤碕町長に就任した。赤碕駅設置の際には、その中心として敷設に携わり、また、赤碕小学校校舎の建設や、学校の坂道の建設にも携わった。

孫平の子の6代目長一(定好の父)は、義父の久次郎と共に塩谷商店を経営し、主に駅前の運送業部門を分担して営むとともに、漁業会長や赤碕実業信用組合理事長、農業会理事、町会議員等を勤め、商工業の発展と、後進の育成をはかった。

7代目定好は、塩谷商店の経営権をすべて関係者に譲り、専ら写真家として研鑚を積み、全国にその名を知られるようになった。戦後は、敗戦による逆境のなか、塩谷写真館を起業し生計をたてながら、生涯、山陰の写真を撮りつづけた。

8代目宗之助は、日本大学芸術学部文芸学科を卒業。山陰日日新聞社・日本海新聞社の編集長や、山陰中央新報社の鳥取学芸部長などを務め、主に山陰の民俗や文芸を担当した。

本宅は、5代目久次郎により、明治39年(1906年)に海運業の本店として建てられた町屋作りの建物で、現在は2階建ての本宅と、4つの土蔵及び庭園で構成されている。 1階と2階に十畳の客間があり、当地方においては珍しい構造となっている。2階の螺鈿づくりの床の間や、各部屋の建築材料に趣向が凝らしてあり、海運業などの事業を営んでいた当時の塩谷家の生活ぶりがうかがわれる。